古楽夢 ~七拾弐~
木曾海道六十九次之内
京師/広重画
江戸の日本橋を出発した中山道の終着駅が京都の三条大橋である。135里2丁1問(約534キロメートル)の道程を2街道も歩いてきた旅人達は、三条大橋に辿り着くや、周囲の優雅な景色、古い神社や仏閣、品のある街並、更には雅びやかに着飾った人達に、今更ながら目を見張ったに違いない。広重は東山三十六峰とその山麓を背景にして、鴨川に架かる三条大橋と、橋上の賑わいを描いている。京都へ入って行く先頭は、近在からきた茶筅売りである。その後ろは後続する武士一行の先頭を切る槍持である。長持に入った荷物を人足が担ぎ、馬の背にも荷物が積んである。この一行の主人は駕籠に乗って揺られている。これらを迎えるような恰好で、被衣を被った公家の子女や、下女に日傘を差しかけて貰った商家の娘が歩く。三条大橋から見た東山は京都らしい景色として知られていた。緑の山は清水山で、その中腹に清水寺が見えている。清水坂を下った先に八坂の塔が建っている。絵の中央に見える大きな屋根は双林寺であり、さらにその左にある大きな屋根は知恩院である。背景の茶色の山は、比叡山を右に寄せてきて描いたものであろう。東海道が温暖な太平洋岸を通る海の道に対し、中山道は険しい碓氷峠や木曽路を通る山道でした。そこで東海道の五十三次、百二十六里余りに対し、中山道は距離も長く宿場の数も多かった。
相田みつをさんの名言です
歩くから路になる
歩かなければ草が生える
~ 皆様はどう思いますか? ~
坂本龍馬と寺田屋事件
坂本竜馬
京都府京都市伏見区 寺田屋
京都エリア:幕末時代、政治の中心は江戸から京都に移り、歴史的大事件が数多く起きている。坂本龍馬についてみれば、妻のお龍と祝言を挙げたのも、暗殺されたのも京都であり、龍馬の努力で成立した薩長同盟は京都薩摩藩邸で結ばれている。
それだけに、龍馬やその関係者のゆかりの場所も数多い。暗殺現場である近江屋跡には「坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地碑」が建てられ、東山の霊山護国神社には龍馬の墓が、円山公園内には龍馬と中岡慎太郎の像がある。
龍馬が隠れ家としていた酢屋や長州藩と会津藩が衝突した蛤御門は昔のままの姿を残している。 その他、中岡慎太郎寓居跡、土佐藩邸跡、薩摩藩邸跡、桂小五郎像などもあり、また近藤勇像や芹沢鴨らの墓のある壬生寺など新撰組関係も多く、京都は龍馬ファンだけでなく、幕末ファンとしては必見の地である。
坂本龍馬ゆかりの地 京都エリア 坂本龍馬ゆかりの旅特集より抜粋
京都・伏見の史跡マップ-幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡より
参考サイト:http://japanserve.com/map-kyoto.html
坂本龍馬の妻
明治32年に撮影された、りょう59歳。
りょうの写真はこの一種類だけだそうです。
出廻っている若い女性の写真はおりょうとは別人のようです。
坂本龍馬の妻と称されている写真です。
この写真は「おりょう」本人ではなさそうで坂本龍馬の妻と称されている写真バックのパネルの模様や小道具に注目する。
それが有栖川宮三十五歳の時に写したという写真のバックの模様と同じことから明治二年、東京・浅草に開業した宮廷写真師内田九一の写真館で撮影したものと見られています。
この写真は内田写真館で明治九年ないし十年に撮影されたものと言われています。
天保十二年生まれのお龍は、このころすでに三十七、八歳。
童顔の残る若々しい写真の女性をお龍とすることはとても無理。ましてお龍が東京に出て 芸者さんになったという記録もない。
当時、芸者さんの写真を「東京土産」として写真店でブロマイドとして売っていたようです。写真の女性の、年齢、髪型、服装について考証した結果、衣紋を抜いた着付けは玄人のものだからで、それを裏付けるように六十歳のおりょうの写真は素人らしく衿を詰めている。
もしりょうが、この偽写真の女性と同一人物であれば、晩年になっても長年の習慣で衣紋を抜いた着付けをしたにちがいない。
りょうは、奉公はしても、芸者にはなっていないからである。
おりょうの写真は、老令で美しくない、だから偽おりょうと知りつつ使用しているのは、視聴者や読者を馬鹿にしている。
いつからマスコミは、良心を失ったのであろうか。
(龍馬と八人の女性 阿井景子著 戎光祥出版 より抜粋)
楢崎龍(ならさきりょう)
天保12年6月6日生~明治39年11月15日午後11時に永眠 享年66歳
終焉の地は横須賀豊島村深田321番地
墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にある。
墓碑には、おりょうを「贈正四位坂本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。
また、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨されています。
羽織姿
夫・坂本龍馬写真
龍馬坐像