古楽夢 ~六拾八~

木曾海道六拾九次之内
武佐/広重画

 武佐の西方に日野川(横関川)が流れていた。文化3年(1806)に幕府が作成した『中山道分間延絵図』には、日野川は「平常渡船場 小水之節ハ舟ニ艘綰キ合セ舟橋トナシ往來ヲ通ス」と注記されている。従って旅人は平常この川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた2艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。広重はその舟橋を描いている。手前の岸で旅人達の渡橋を眺めているのは村役人であろう。橋の中程には、葛籠の上に風呂敷包と茣蓙を重ねて背負った、腰の曲った老人が杖を突きながら渡っている。武佐辺りは近江商人を最も多く輩出した地であり、この老人も高宮宿で生産された蚊帳などを背負って京都方面へ行商に出掛けるのではなかろうか。その後では風呂敷包と傘を背負った一人旅が、覚束ない老人の足取りを見守っている。対岸からは夫婦らしき巡礼が橋を渡ってくる。女房の着る笈摺の両端が赤いのは、彼女の両親がまだ生存していることを示している。彼等が目指しているのは武佐宿の先の西国三十二番目の札所観音正寺であろう。対岸へ橋を渡り切ろうとしている子供は、握り飯を入れた藁苞と、雑穀か塩を入れたと思われる叺を天秤で担いでいる。(付記:図中の絵番号66は67が正しい)



獅噛の置物