古楽夢 ~六拾五~
木曾海道六拾九次之内
鳥居本/広重画
中山道は番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った。この峠から西方の眼下には琵琶湖の素晴らしい景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。ここの立場茶屋で旅人達は名物「すりはり餅」を頬張りながら景色を楽しむことができた。その中で一番高い所にある茶屋からの景色は最高であった。その昔、朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩した折、その一員の真狂が「望湖堂」と揮毫した書を残していった。これよりこの茶屋を「望湖堂」と呼ぶようになった。『木曽路名所図会』には、「此嶺の茶店より見下せば 眼下に磯崎、筑摩の祠、朝妻の里、長浜、はるかに向ふをみれば 竹生嶋、澳嶋、多景嶋、(中略)湖水洋々たる中に行きかふ船見へて風色の美観なり」と記されている。中山道を往来する大名達も必ず「望湖堂」に立寄って行った。その関係でこの茶屋の内部は本陣風に造られていたという。広重は「望湖堂」で休息をとる大名の一行を描いている。茶屋の窓には絶景を堪能する大名や近習達の顔が見え、茶屋の前に置かれた駕籠、茶弁当、合羽籠、竹馬などの脇では従者達が手持不沙汰に休憩している。旅人達は路傍に敷いた茣蓙の上で絶景を嘆賞している。(付記:図中の絵番号63は64が正しい)
彦根城
彦根城は徳川四天王のひとりである井伊直正の子、直継によって築かれた城です。以降、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城として用いられました。現存12天守のひとつであり、天守は国宝です。幕末に起きた「桜田門外の変」で暗殺された大老、井伊直弼は藩主となるまでをこの城下で過ごしており、当時の屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」としていまも現存しています。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に勝利した徳川家康は、関ヶ原で戦功のあった徳川四天王の1人である井伊直政に三成の旧領である近江湖東の地18万石を与えた。古来より湖東の地は、中仙道と北国街道が交わり、京の玄関口にあたる交通の要衝で豊臣秀吉が三成に任せたように、家康も最も信頼する家臣の1人である直政にこの地を任せたのである。上野・箕輪12万石から近江・佐和山城に移った直政だが、佐和山城が山城で近代戦に適さないことや城下町の発展が限られ、また三成の遺構ということから彦根山(金亀山)に新しい城の築城を計画した。しかし、直政は築城に着手する前に、関ヶ原の戦いの時に受けた鉄砲傷がもとで慶長七年(1602)に亡くなってしまう。
跡を継いだ嫡子・井伊直勝はまだ若年であったため、彦根城の築城は井伊家家臣団が直政の意思を継ぎ、慶長八年(1603)彦根山に築城を開始する。幕府も大坂城の豊臣秀頼を中心とした西国大名に対する防衛拠点の1つとして、交通の要衝にあるこの城を重視し、7カ国12大名に役夫を割り当てた天下普請を行った。築城工事は、元和八年(1622)までかかったといわれ、約20年を要した大工事だった。彦根藩では大坂の陣後、家康の命で病弱な直勝は廃され、大坂の陣で功績のあった直勝の弟である直孝が跡を継ぐことになる。直孝は、父譲りのなかなかの人物だったらしく、譜代筆頭として幕府内でも重きを成し、井伊家は30万石に加増される。その後も井伊家は何人もの大老を輩出し、江戸時代を通して幕府内で重責を担った。また井伊家は彦根藩から1度も転封されることなく、明治を迎えている。
彦根城古図:彦根市教育委員会資料より 古楽夢~拾九~碓氷峠の護りと関連