古楽夢 ~六拾参~

木曾海道六拾九次之内
酔ヶ井/広重画

 広重は「さめがい」と発音する宿場に「酔ヶ井」の字を当てているが、この宿場名が居醒の清水に由来するとれば「醒ヶ井」とするのが正しい。この宿場の名勝は「三水四石」といわれている。それは居醒の清水、十王水、西行水の三水と、蟹石、日本武尊の腰掛石、鞍掛石、影向の四石である。また宿場の東端にある鴬ヶ端は、西北を眺めた景色がよく、古来多くの旅人が足を止めたといわれている。ところが広重はこうした名勝を避けて、宿場の西外れの六軒町辺りを、東から西に向いて描いている。左の宿場の背後にある松林と右の山の間の谷間には天野川が流れ、その先は琵琶湖へ注いでいた。そのためこの谷間の空間からは何となく琵琶湖の存在が伝わってくるようである。この点でこの絵には鴬ヶ端より眺めた景色を彷彿とさせる部分もある。さて大名行列が六軒町を通り過ぎて行き、その最後尾部分がここに描かれている。大名の家紋が押してある茶色の茶弁当を中間が担いで行く。殿を勤めているのは、竹馬を担いだ足軽と、槍を担いだ中間である。両人の着た半纏の背には版元錦樹堂の商標「林」が染め抜いてある。街道右の土手では、行列の威圧感から解放されて農夫がゆっくりと煙草をくゆらせている。


金箔押獅子噛形前立


角四本を後側にそらせた立体的な造り込みが良い獅子噛形前立です。現存する獅噛みの前立ては、ほとんど17世紀以降に作られたものである。それ以前のものは、とくに戦国時代の兜に付けた獅噛みの前立てを見ることは、大変まれである。松平定信(1758~1829:宝暦8~文政12)が編集した「集古十種」の「兵器類甲冑一」には、武田信玄(1521~73:大永1~天正1)が使ったという「獅噛」の前立ての図が出ている。松平定信は、有能な画家を派遣して全国の古美術品の記録をとらせたといわれる。復古調の甲冑制作がさかんであった江戸時代末期には、この武田信玄の前立ての図を参考にした獅噛の前立てが多く作られたものと思われる。





当世具足の兜との立て物 著書:土井輝生 雄山閣出版より引用