古楽夢 ~五拾八~
木曾海道六拾九次之内
赤坂/広重画
この絵は赤坂宿の東を流れる杭瀬川と、これに架かった土橋、さらにその先に連なった赤坂宿を示している。今まで降り続いていた雨が上ったのか、手拭を姉さん被りにし、着物の裾を絡げた女は、傘を半分窄めて土橋を渡って行く。宿場を出立した長合羽を着た旅人は土橋を渡り、引回合羽を着た旅人は土橋を渡りかけている。手前から土橋を渡り切った右手に高さ10尺(約3メートル)程の傍示杭が立ち、ここが宿場への入口であることを示している。この杭には「自是大垣藩領赤坂宿」と書かれてあった筈である。さてこの絵の杭瀬川には大きな石がごろごろと水面に出ていて、浅瀬の川のように見えるが、しかし実際の川は、ここより北の標高900メートルの池田山から出る自然の湧水を集めてくるため、水量はもっと豊富であった。その上この川は南で揖斐川に合流し、平坦な濃尾平野を通って桑名で伊勢湾に注いでいた。そのため赤坂宿と桑名宿との間には舟運が発達していて、赤坂宿の杭瀬川には赤坂河岸(赤坂湊)があった筈である。さらに赤坂河岸には数百隻の舟が出入りして繁昌していたという。ここから桑名まで諸藩の蔵米、特産の木材、茶、酒などが運ばれていった。この宿場から西国三十三所詣での満願所谷汲観音へ行く谷汲観音道が分岐していた。
手慣らし鉄扇
扇子に見せかけた、ムクの鉄扇。平安の昔、貴族の持ち物とされた扇も戦国時代に入り軍扇(ぐんせん)として変遷。 帯刀を許されぬ場所に出向く時は、この鉄扇を懐に忍ばせました。
この伝統の秘武器としての軍扇は二種類ある。開閉できない鉄のムクの「手慣らし型」と親骨を鉄、中骨の竹に和紙を張った「面張り型」だ。
側面
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