古楽夢 ~五拾七~
木曾海道六拾九次之内
みゑじ/広重画
美江寺の周辺には、現在も古代律令制時代の条理制の遺構が残っている。美江寺宿は北から数えて十六条に位置していたため、昔は十六条村ともいった。昔は十六条村ともいった。この地域は長良川や揖斐川などの氾濫によく見舞われていたので、奈良時代の初めこの地域を氾濫から守ろうと考えた住民達は、伊賀国にあった十一面観音をここへ移し大伽藍を建立して祀った。それ以来川の流れが穏かに美しくなったので、人々はこの寺を美江寺と呼ぶようになった。その後岐阜城主の齋藤道三によって、この寺は岐阜へ移転させられた寺名だけは残った。この絵はこの宿場の西を流れていた犀川の辺りと、その西に広がった田園風景を示している。この辺りは所々にガマといわれる湧泉が湧き出しており、犀川はこれらの湧泉を集めてできた川である。犀川の川縁には竹藪が生い茂り、街道脇には椿の花が満開に咲いている。鍬を担いだ農夫は旅の老僧に道を尋ねられて、道を指差して親切に教えている。その後では手拭を吉原被りにし、商品を入れた葛籠を背負い、腰に煙草入れを差した旅商人が腕を組んで立聞きをしている風である。遠方に屋根だけが見える集落がある。この辺りのどの集落も、川の氾濫から守るため周囲を堤防で囲んでいた。これを輪中といった。
蛭藻金&慶長小判
蛭藻金
室町時代の中期より、金は砂金から金塊を叩き延ばして長楕円形の薄板状にしたものを使用するようになり、蛭藻金は植物(水草)の蛭藻の葉の形に似ていることからそう呼ばれるようになりました。
江戸時代の慶長小判の先駆けの一つといわれていますが、詳細は不明な点が多いため、明らかにはなっていません。
慶長小判
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は幕府設立に先立ち、 貨幣制度の整備を重要課題の一つとし、 後藤庄三郎光次に全国流通を前提とした小判の鋳造を命じた。
慶長小判
慶長期は小判師が吹屋職人を率い、各自で製造した判金を後藤役所に持参し、 品位および量目(質量)を改めた上で極印の打印を受け両替商に売却することにより 発行されるという、いわゆる「手前吹き」という形式であった。 後藤役所(ごとうやくしょ)および小判座(こばんざ)は後に金座と呼ばれるようになる。