古楽夢 ~五拾五~
木曾海道六拾九次之内
加納/広重画
関ヶ原の合戦後、従来の岐阜街道に比べて中山道が重要であることを知った徳川家康は、岐阜城を廃し、その代りに南方を通る中山道沿いの加納に宿場を設けるとともに、加納城を築き、女婿の奥平信昌に10万石を与えて城主に据え、街道の管理掌握に当らせた。しかしこの絵の描かれた頃は、昔の戦略的地位は低下し、城主永井氏の石高は3万2千石に過ぎなかった。中山道はこの城の北の丸に当たる部分を通っていて、武家屋敷や長い宿場町はここから西方、即ちこの絵の右の方へ伸びていた。この絵は中山道の南にあった加納城を東北から望んで描いたものである。松並木のある街道を大名行列が西から東へ向かって行く。「したぁにーしたぁにー」と叫んで歩く露払いは先へ行ってしまったが、路傍の旅人達は土下座をして行列が通り過ぎるのを待っている。武威を示す行列の先頭を切るのは、先箱を持った中間2人である。箱が一対になっているので対箱ともいい、箱の中には衣類を入れていた。その次の中間2人は白熊槍を持って歩いている。その後に打裂羽織の御従士衆、野袴をはいた御供頭か御近習が続く。高級な駕籠を指した乗物には大名が乗り、これを陸尺(駕籠舁)が、前に2人、後に2人の総勢4人で担いでいる。
日本紙幣の元祖「山田羽書」
羽書とは羽根の羽を書くと書きますが、これは伊勢の山田で発行された紙幣で、
日本の紙幣の元祖と言われています。
当時、関西地域では大型の貨幣が使われていましたが、それは嵩む上に重く、不便でした。
そこで、17世紀のはじめごろ、伊勢山田の商人たちは貨幣の代わりに金額を紙に書き、預かり手形として発行するようになりました。これが山田羽書の始まりと言われています。
山田羽書は日本初の紙幣であり、江戸時代を通じて発行され、全国の紙幣経済の基礎となった。