古楽夢 ~五拾参~
木曾海道六拾九次之内
太田/広重画
この絵は中山道が木曾川を越える「太田の渡し」を示している。古くから「木曾のかけはし、太田で渡し、碓氷峠がなくなばよい」と俗謡に唄われたように、木曾川の急流を横切る「太田の渡し」は、中山道の難所中の難所であった。太田宿から木曾川を渡った大田南畝は『壬戌紀行』の中で、「太田川(木曾川)を渡るには一町ばかり川上より船にのるに、流れ急にして、目くるめくばかりなり」と記している。ところが広重の描いた木曾川は悠揚迫らぬ長江になっている。この川を流れて行く筏は、尾張藩領の木曾山中で伐採した檜などの木材を尾張の熱田湊まで運んで行く筏である。また客を3人乗せた渡し舟では、流れに押し流されないようにと船頭が舟の舳を懸命に川上へ向けて漕いでいる。右が川上で、左が川下だとすれば、この絵は今渡から対岸の太田宿を望んでいることになる。手前の堤防の左では、笈摺を着て、首から頭陀袋をかけた巡礼の親娘が、これから渡る木曾川と対岸の太田宿を眺めやっている。右の方の石に腰を下ろした旅人2人と、さらに堤防の下の川岸には旅人3人が、渡し舟の到着を今や遅しと待っている。大正2年に太田から犬山まで舟で下った地理学者志賀重昂は、その間の景観を讃え、「日本ライン」と命名した。
切手で見る江戸の人物像 その一 (男性編)
徳川光圀
江戸前期の大名。常陸水戸藩徳川家二代当主。家康の孫、頼房の三男。字は子龍、号は梅里。民治に努め、儒学を重んじた。 江戸の藩邸に彰考館を建てて『大日本史』編纂事業を始め、朱舜水を招くなど、水戸学の基をつくった。のち中納言となり、水戸黄門と呼ばれた。元禄13年(1700)歿、73才
消防団
谷村虎蔵の鷲塚八平次
三代沢村宗十郎の大岸蔵人
大谷徳治の奴袖助
中島和田右衛門の
ぼうだら長左衛門と
中村此蔵の
船宿かな川やの権
三代市川高麗蔵の志賀大七