古楽夢 ~四拾九~

木曾海道六拾九次之内
大久手/広重画

 大久手から細久手へ向かって少し行った先の右側に二つの巨岩が並んでいた。この二つの岩は中山道を旅する人々には余程目についたものらしく、街道の案内書である『五街道中細見記』(木曾街道)に「ほろ岩」、「ゑぼし岩」と紹介されている。細久手から大久手に向かった大田南畝も『壬戌紀行』の中でこの二つの岩をつぎのように詳細に描写している。「道の左にたてる大きな岩二つあり、一つを烏帽子石といふ、高さ二丈ばかり、幅は三丈にあまれり、また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり、いづれもその石の形に似て、石のひまに松、その外の草木生ひたり、まことに目を驚かす見ものなり」と。この絵の岩の形から察すると、広重は母衣岩を描いたものと思われる。母衣というのは、竹籠を布で覆って、武士が鎧の背に負って敵の矢を防いだものである。もう一つの烏帽子の形をした岩は、母衣岩の背後、右上方向にある筈である。大久手方面から坂道を登ってくる農民夫婦は山で刈った柴を背負梯子(背負子)で運んでいる。ここから細久手方面へ岩石の多い険しい山道を登り下りして行くと琵琶峠がある。この峠からは北東に木曾の御嶽山、北に加賀の白山、西に伊吹山、南に伊勢湾を望むことができた。



兜&前立のご紹介 早乙女家久作兜&前立

立物(たてもの)特に中世以降、武士の時代には己の武を誇り、存在を誇示するために鉢や眉庇に添う植物を取り付けるようになる。立物は付ける場所によって前面に付ける前立(まえだて)、側面に付ける脇立、頂点につける頭立、後部につける後立に分けられる。 中世には鍬形と呼ばれる前立がよく用いられた。初期は一体形成のものもみられるが、鍬形台と呼ばれる台の両端に獣の角等を想わせる一対の装飾を取り付けるのが一般的である。 三鍬形と呼ばれるものは、さらに中央部に祓立をつけ、ここにも装飾を取り付けることができるようにしている。
鍬形に空いている穴は、ハート型の形状を猪目(いのめ)という。立物は、外部より強い衝撃や力が加わったときにダイレクトに頭部にそれが伝わらないように、ある程度の力が掛かった場合壊れたり、外れるようになっていた。
この前立は、動物の皮をなめした上に漆で固め金箔を押したものであるそこに墨字で不動明王の梵字が書かれている

銘:早乙女家久
前立:梵字不動明王