古楽夢 ~四拾七~

木曾海道六拾九次之内
中津川/広重画

 恵那山を水源とする中津川は西北へ流れて木曾川に注いでいる。中津川宿はこの川の東岸に位置し、また宿場内には四ツ目川が街道と直角に交差して流れていた。宿場はこの川を境に2分され、西には問屋場、本陣、脇本陣などがあって宿場の中心をなし、東には穀物、塩、味噌、溜、酒、小間物、呉服物、古着、木綿、紙類、檜笠などを扱う商家が並んでいた。この絵は中津川とそれに架かる中津川橋を前景とし、橋を渡って田圃の中を縫って通る中山道が中津川宿に吸い込まれて行く様子を描いている。宿場の背後には焦茶色の上金丘陵と、その後に横に長く連なる木曾の山々が見えている。川の堤防には枝垂柳が緑の葉を茂らせ、旅人達の目を楽しませている。橋を手前へ渡り切ろうとしている男は、丸頭巾を頂き、首から結い袈裟のようなものを掛け、手には扇子を持っている。彼は仏法を修行する道者ででもあろうか。反対に農夫が野菜を入れた畚を天秤で担ぎ、宿場へ行商に向かって行く。対岸からこちらへ荷札を立てた長持を担いだ人足2人が橋を渡りかけている。この長持の重量制限は10貫目(37.5キログラム)であった。彼等にはつぎの大井宿までまだ2里半(約10キロ)の道程が待ちうけている。



大名行列と参勤交代

大名の参勤交代は、慶長7年(1602)に加賀の前田利長が人質として江戸に送られていた母・芳春院を訪ねて出府したことに始まるとされている。その翌年、徳川家康が将軍に就任すると、大名たちの江戸参勤が広く行われるようになり、三代将軍家光の寛永12年(1635)「武家諸法度」において参勤交代が制度化された。それ以後、大名は妻子を人質として江戸屋敷に置き、1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけられた。国元と江戸を往復する大名と家臣団の士卒が組んだ行列が、いわゆる大名行列である。