古楽夢 ~参拾七~

古楽夢(参拾七)

人文社 広重・英泉の木曾街道六拾九次旅景色

宮ノ越/広重画

宮ノ越宿は木曽義仲が生まれ育ち、また平家討伐のため旗揚した地である。さらに宿場の西、木曽川右岸の徳音寺には、近江で戦死した義仲の墓もある。さてこの絵の中にこの宿場を特定する物象を見つけることは困難である。それでも、満月に近い月が出た夜、小奇麗な着物を着た夫婦とその娘3人は、祭見物からの帰りに橋を渡っているところであるという仮定を立ててみた。昔この宿場では「だっぽう」という祭が盛大に催されていた。それが現在「らっぽしょ」という祭りに受け継がれて、毎年8月14日に行われている。(旧暦であれば満月に近い)。この夜徳音寺集落の子供達は、寺の北方にある山吹山(山吹は義仲の愛妾名)へ登り、そこから火を付けた松明を持って「義仲公とおらが在所は一つでござる」などと歌いながら山を下り、最後に徳音寺にある義仲の墓に詣出て祭りは終る。恐らくこの絵の橋渡る親娘は、弁当持ちで祭見物に出掛けたのだが、祭に飽き飽きした次女にぐずられて、やむなく帰路についたというところであろう。疲れ果てた次女は父親の背中でぐったりとし、3女は母親の懐で温っている。弁当を携えた長女だけはまだ未練がましく後を振り返っている。とすると、川は木曽川、橋は青木橋、対岸が中山道となる。



八幡座の云われ

兜の天辺は古来神が宿ると信じられ、神聖な場所とされてきた。このため、天辺の穴の周縁を飾る座金を、天辺の座あるいは八幡大菩薩にあやかって八幡座・神座などと呼ぶ。八幡大菩薩とは天応元年(781)に朝廷が宇佐八幡に大菩薩の号をあたえて鎮護国家の神としたもので、その背景には神仏習合の流れがある。かつて平将門が八幡大菩薩の権威によって「新皇」を称するなど、武家の間ではこの八幡神への信仰が盛んであった。一方、近世に入ると、紳道師信仰の八幡座に対して、仏教の教養で世界の中心にそびえるとされる須弥山にちなんだ須弥座という言い方もなされるようになる。さらにこうした文脈とは別に、天辺の穴の周縁を飾る座金であることから天辺の座という呼称も使われた。