古楽夢 ~参拾~
下諏訪/広重画
下諏訪宿は、1.諏訪神社の下社があった。2.ここから甲州街道と伊那街道が分岐していた。3.難所の和田峠と塩尻峠の中間にあった。4.温泉が出た、などの理由で商人や旅人達で非常に賑わっていた。広重はこの宿場の旅籠屋の内部を絵にしている。窓際に障子が立ち、奥の襖には版元錦樹堂の山形に林の商標が模様化されている。すでに風呂を浴びて、手拭を掛竿に掛けた旅人6人が、下女の給仕で夕食をとっている。銘々の前には1汁2菜を乗せた足付膳が並ぶ。1汁2菜とは、汁(豆腐、菜)、煮物の平椀(いも、菜、揚豆腐)、焼き物(煮浸し鮒)であった。6人のなかで手前に背を向けた男だけが紋付の着物を着ていて特別に見えるので、広重自身だという人もいる。左奥の湯殿では1人の客が据え風呂(五右衛門風呂)に浸っている。背後の壁にある「火の用心」の貼紙は、風呂の湯がこの宿で沸かされていたことを示している。温泉地下諏訪で宿屋まで温泉の湯が引かれるようになったのは明治に入ってからである。そのため温泉に浸りたい旅人達は問屋場の隣にあった綿之湯の共同浴場まで行った。風呂場の手前には柄杓が投げ込まれた手水鉢が置いてある。その後の連子窓のあるところが厠である。
明珍三作のご紹介
江戸時代、ある甲冑師たちの製作した兜が珍重された。明珍派を代表する甲冑師、高義・義通・信家の三人である。彼らは室町時代末期から戦国時代に活躍した甲冑師で、明珍派の中でも特に技量が優れているとされ、いずれも鍛えの良い筋兜を得意とした。全体的に端正な鉢を残した高義、二重がさねの矧ぎ合わせが特徴の義通、人気があったことで偽物も多いといわれている信家。其々の作風には細かな特徴はあるものの、共通しているのは「鍛えの良さ」である。
高義(松本国彦氏蔵) 鉄錆地六十二間筋兜
銘 高義
八幡座を設けないのが高義の作風。鉢は戦国時代、シゴロは江戸時代の作である。
義通(松本国彦氏蔵) 鉄錆地六十二間筋兜鉢
銘 義通
鉢に付けられた特徴的な眉庇には祓立が打たれている。
信家(松本国彦氏蔵) 鉄錆地六十二間筋兜鉢
銘 明珍信家
花押天文四年乙未二月吉日 八幡座・鉢付鋲・鍬形台・覆輪などは後に補われたものである。