古楽夢 ~弐拾九~

古楽夢(弐拾九)

和田/広重画

この絵は和田と下諏訪との間にあった和田峠の雪景色を示している。和田峠が中山道中最大の難所といわれたのはつぎの理由による。1.和田峠の標高1600メートルは中山道中最も高い峠であった。2.和田宿から下諏訪までは5里半(約21キロ)もあって、宿場間の距離としては中山道中最長であった。3.峠道の道幅は6尺(約1.8メートル)程で狭いうえに急坂が多かった。4.冬期の積雪は3メートルにも及び牛馬が屡々歩けなかった。5.濃霧がよく発生した。こうした理由で旅人達の峠越えは難渋を極めた。そこで幕府はこの峠の唐沢、東餅屋、西餅屋、樋橋、落合の5ヶ所に休み場を設置することを許可した。このうち東餅屋には5軒の茶屋があって、旅人達に茶と名物餅を供していた。さらに文政11年(1828)には江戸の篤志家商人が、幕府の許可を得て東餅屋と唐沢との中間に人馬施行所を開き、毎年11月から翌年3月まで旅人や人足達には粥を、牛馬には飼葉を施していた。この絵の場所は和田峠の鳩のむねあるいは鳩の峰といわれた辺りであろう。路上の積雪はさほどではなく、旅人の歩行に難渋さは見られない。行く手に見える白い山は御嶽山である。遥々江戸から旅してきた人々は、初めて接した霊峰に旅の安全を祈ったに違いない。



地名を冠した兜鉢のご紹介

鉄錆地六十二間筋兜
銘 早乙女家貞

その六 下妻(早乙女)鉢
鉄錆地六十二間筋兜
銘 早乙女家貞(田籠厳人氏蔵)
加賀藩の家老・不破大学所持と伝来のある兜。
天辺に八幡座の装飾を施し、眉庇上には一本角元を打つ。



鉄錆地六十二間小星兜
銘 早乙女家忠

下妻鉢は、別名、早乙女鉢ともいう。
茨城県下妻市で、兜や鍔の製作に「携わった甲冑師のグループが、縁の地名に因んで早乙女派を名乗ったといわれる。工房があったと考えられているのは、下妻市の現在の上宿・仲宿あたりになる。また、大町には早乙女姓を名乗る家が現在も数家あるようだ。
早乙女派は室町時代末期に発生したと長年いわれてきた。しかし、現在の研究では時代が下がって、桃山時代末期頃かという説が有力視されている。
早乙女派は、鍛えの良い三十二間・六十二間の小星兜鉢・筋兜鉢を多く製作している。
鉢の形は天辺がやや窪み後部を高くした後勝山で、明珍派と較べて大振りである。
四天の鋲、響きの穴は鉢のやや上方に位置し、鉢裏の天辺近くに、前は座金付の鋲一個、後には座金なしの鋲二個を打っている。この鋲は早乙女鋲といい、早乙女は独特の手法である八幡座は装飾金具を設け、腰巻板は下がるものが多く、前立を挿入する装置は角元が多い。





学研 図説・戦国甲冑集より抜粋