古楽夢 ~弐拾八~
長久保/広重画
長久保から西に向かう中山道は依田川に架かる依田橋を渡っていた。広重は満月が中天に掛かった夜に下流から見た依田橋を描いている。この絵の特徴は、手前の街道だけが月に照らされて明るく示され、その他物象すべてが影絵風に描かれていることである。さて中山道は依田橋を渡ると真っ直ぐ伸びて和田村へ向かっていた筈であるが、広重は街道風景を見せるため、わざわざ依田川沿いに捩じ曲げてきている。同様の手法は12新町、14高崎、69守山などの絵にもとられている。手前の街道を、和田宿から帰り馬を引いてきた馬子が、美しい月に見とれながら歩いて行く。馬の尻掛に白く染め出された山形に林は版元錦樹堂の商標である。その後では2人の子供が犬の取り合いをして啀み合っている。この辺りの街道筋に建った家は、この絵のように屋根は板葺で、風で飛ばされたり、太陽で反り返ったりしないように、屋根の上には石が乗せてあった。この街道筋を除いて、川岸の松、竹藪、依田橋、対岸の森、遠景の山などは、月の光の陰になるのか影絵に見える。橋上には疲れて首を前に垂れた旅人を乗せた馬と、腰の曲がった馬子、荷物を天秤で運ぶ農夫が長久保宿へ向かい、逆に菅笠を被り、風呂敷包を背負い、杖を突いた旅人が和田宿へ向かって行く。
地名を冠した兜鉢のご紹介
その五 常州鉢 鉄地金塗六十二間筋兜鉢
(松本宏祐蔵・富士見市立難波田城資料館保存)
鉢には「天文三年」「吉久作」の銘がある。
常州で活躍した吉久の遺品は数が少ない。
貴重な一頭である。
常州鉢は、常陸国府中(現在の茨城県石岡市)近辺に居住した明珍派の甲冑師のグループが製作した兜のことで、俗に「常州明珍」と呼んでいる。
常州明珍の発生は、鎌倉の甲冑師たちがこの地に移り住んだのが始まりである。
常陸国の佐竹・江戸・小田氏らの需要を見込んでのことであった。
この室町時代末期頃には、常陸府中は大椽氏・水戸には江戸氏が勢力を競っていた。また、常陸太田には佐竹氏、土浦には小田氏の臣・菅谷氏が、虎視眈眈とトップの座を狙っていた時代でもあった。しかし、天正十八年(1590)小田原の役で豊臣秀吉に味方した佐竹義宣が台頭すると、水戸を含め、府中は佐竹氏の領域となるのである。常州明珍は、この佐竹氏の庇護のもとで、多くの作品を世に送り出すこととなるのである。常州明珍の作風は、何といっても鍛えの良さである。鉢の形は端正で天辺に丸みがあり、筋立は高く力強い。眉庇は共鉄でやや前方に突き出し、主として祓立を設けている。また、天辺の穴に八幡座を設けないことが多い。
学研 図説・戦国甲冑集より抜粋