古楽夢 ~弐拾六~
望月/広重画
中山道は、望月宿から東へ向かうと、布施谷を流れる鹿曲川を渡り、瓜生坂を上った後金山坂を下って牧布施へ着く。この絵は瓜生坂の赤松並木と谷を隔てて浅間山を描いているとするのが通説である。ところがこの説には問題がある。第一は瓜生坂にこのような赤松並木があったかどうかである。『岐蘇路安見絵図』には、「金山坂、瓜生坂両方木なし」とある。そこで広重は、次の宿場芦田宿の西にあった有名な「笠取峠の松並木」を借りてきて描いたのではないかという説も生まれてくる。この峠には幕府が小諸藩に植えさせた赤松が753本も立っていた。第二の問題は、浅間山は金山坂から見ることができても瓜生坂からは見えなかったという点である。閑話休題。この宿場の東北にある御牧ヶ原は古代には望月牧といい、朝廷が必要とする馬を飼育していた。ここの馬は全国の最優良馬として、毎年8月15日の満月の日に天皇へ献上されていた。望月の地名はこれより起ったという。この由緒に敬意を表して、絵には満月とともに2頭の馬が描かれている。1頭は茶箱を、他の一頭は油の樽を積み、1人の馬子に引かせている。彼は中馬を率いる運送業者であろう。坂の途中で老人の旅人が一服しながら樹間を通して満月を見ている。
地名を冠した兜鉢のご紹介
その三 相州鉢
鉄錆地金覆輪二方白筋兜(松本国彦氏蔵)
裏鉢に「相州住吉久」の銘があえる兜鉢・鉢は
鉄錆地金覆輪四十二間の二方白筋兜で、吹返しには丸に梅鉢紋を金蒔絵で描いている。
相州鉢は、後北条氏の庇護のもとに、小田原・大島・韮山・鎌倉雪の下において、甲冑師たちが製作したものをいう。この甲冑師のグループを「相州明珍」と呼ぶ。
相州明珍の発生は、北条早雲の小田原城奪取に端を発する。京都や奈良から明珍派・春田派を招き、甲冑の製作に当たらせた。「本朝武器考」に「北条早雲、井田・半(春)田を小田原へ招き造らしむ」との記述がある。
各地方ごとの特色は当然あったであろう。その地方に加え、明珍派と春田派の作風が融合した姿、それが相州明珍の古い姿であったと思われる。
相州鉢の遺品には、春田系が習得した雑賀風のもの、また、常州明珍系の影響なども見受けられる。例えば初期のものには、春田系が得意とした阿古陀形が見られ、時代が下がるにつれ、明珍系の得意とした鍛えの良い錆地を多くみる。
学研 図説・戦国甲冑集より抜粋