古楽夢 ~弐拾壱~
追分宿 浅間山眺望/英泉画
この宿の分去れで中山道から善光寺へ行く北国街道が分岐していたことから、この宿場は追分と称されていた。ここから中山道を南にとると、やがて荒寥とした追分原に入る。ここで立ち止まって振り返ると、この絵のように浅間山が眼前に追って見え、また裾野は目の届く限り広がっていた。浅間山は活火山で歴史上に記録されるようになってからでも何度か噴火している。この山が噴火するたびに地震を起し、巨岩を噴き上げ、火山灰の降る地域は関東平野にまで及んだという。通常の時でも晴天であれば噴煙を望むことができた。そして山の色は日によって複雑に変わり、ある日は紫に、ある日は濃紺に、ある日は茶褐色に見えた。裾野一帯は不毛の地であったが落葉松だけは育ち、春から夏にかけて美しい緑を見せていた。この絵では落葉松の並木道を2人の2本差の武士が人足に長持のような荷物を担がせて小田井宿へ向かって行く。後方の長持は、2人で担ぐ10貫目の重量制限を超えたのか、人足が3人掛りで担いでいる。その後を緑色の桐油合羽を着た馬子が、緑色の油紙で包んだ明荷3箇積んだ馬を引いて歩いて行く。明荷の中は茶であろうか。この馬の尻掛と腹掛に染め抜いた丸に竹は、版元保永堂の家標である。
八代藩主 真田幸貫とその長男
八代藩主 真田幸貫(ゆきつら)(1791~1852)
1791(寛政3)年白河藩主松平定信の次男として生まれ、1815(文化12)年に七代藩主・幸専の養子となり、1823(文政6)年真田家の家督を継ぎました。江戸城大手門番を数度にわたって務めた後、1841(天保12)年に水戸藩主・徳川斉昭の推挙を受けて、幕府の老中となり、翌年からは海防掛を勤めました。性格は剛毅果断であったと伝わっています。文武を奨励し産業の開発が富国強兵の道であるとしてその興隆に努め、大砲や鉄砲を揃えるなど軍備を増強しました。また人材養成に着眼し、佐久間象山・村上英俊などを登用したほか、目安箱を設置するなど藩政の刷新をはかりました。幸貫は文芸にも秀で、書画や陶芸作品などが多数遺されています。1852(嘉永5)年に藩校・文武(ぶんぶ)学校の建築基準に着手してまもなく、62歳で没しました。
文武学校
(父:信濃松代藩八代藩主 真田幸貫 31歳時の長男の産毛)